読書量の限界と仕事と読書の関係とエンタテインメント小説苦手人間の弁明
この土日は、江古田の喫茶店をふらふら回遊しながら、5冊の本を読了。
6冊目を3分の2ほど読んだところで……インプット能力の限界を迎えました。
全く、本の内容が頭に入らず、さらに悪い事にその時読んでた本のテーマが「出版不況」……ひたすら気分が滅入ってしまい、「いかん!このままでは鬱に逆戻り」と気づきまして、自宅に戻ってぼーっとする事にした次第。
それにつけても、すごいと思うのは、本を読んだり情報収集が本職な人達の「体力(?)」です。だって、2日に5冊程度の読書量じゃあ、とても学者やライターにはなれないでしょう?少なくとも私がギブアップした倍くらいのペースで、毎日読んでらっしゃるはず。特に、社会学とか歴史の専門家というのは、滅入る内容の本を延々と毎日読み続けている訳で……
それ、鬱にならないのか?
頭痛がして活字を受け付けない時はどうされているのか?
私には、到底無理です。
と、言うと、「お前だって本屋で働いていただろう」とか、「今も書籍の組版やってるだろう」とか言われそうですが、書店員も組版屋も、本なんか読まなくても職人的な技量で何とかなるというか、そっちの方が大事な職域だと私は思ってます。
読書は私にとってほぼ娯楽ですし、本を読む事で話題が広がって、職場でのトークが面白くなればめっけもの、という位の効用しか求めていません。
てか、仕事のために本を読むなんて、なんか辛そうな気がしちゃって無理なんですよね。
その割に、堅めの本を読んでるように見えるのは、単に私が真面目なのと、エンタテインメント小説にきちんと触れないまま大人になってしまったからです。
私世代以降の読書好きというのは、たいていの場合、コバルト文庫とか黎明期のライトノベルを読みふける時期を経過してると思うんですが、私は何故かラノベ方面にはほとんど触れていないのです。
母親が結構な文学&少女漫画好きで、「あんな中途半端なものを読むなら、漫画か文学のお読み」って言ってたのを、妙に素直に受け取ってしまったからだと思われますが、妹弟はわりとラノベも読んでた事を思うと、なぜ姉弟の中でいちばんアクの強い私(自覚している)だけが?とちょっと謎。
ラノベやエンタテインメント小説に関しては、それこそ長年の蓄積がものをいう世界だと思うので、恐らく、今から私が良い読者になるのは無理でしょう。
ちょっと残念ではあるな。
【本日の5冊】
「広島第二県女二年西組」
読書スランプから脱出できたと思ったら、猛烈な読書欲に駆られて本ばかり読んでいる。
と言っても知れた量ではあるんだけど、先週の1週間で10冊と言うのは、私にしては多い。
最も、勢いに任せて読んだ本を自分の血肉にしていくのは難しくて、内容を忘れてしまう事もある。
大学を卒業した時に、「読書は私にとって娯楽なんだ」「楽しめれば血肉になんてならなくていい」と割り切ったつもりでいるのだが、根が真面目なので読んだ本の内容を忘れてしまうと、ものすごく後悔してしまうのだ。
忘れないためには記録すれば良いのだろうし、このブログをそのために使う手もある。でも私、感銘を受ければ受けるほどそれを言葉にするのに難儀する体質なんでね。
面白かった、感動した、まるって感じで、言葉を呑み込んでしまったり、ぐちぐちと考えを巡らせ同居人氏相手に言葉を吐き出した挙句に、収集がつかなくなって纏めるのを断念したり。
だから、自分にとって大切な本ほど、その本を読んだ時の自分がどう感じたか、おぼろげでつかみとれない。
後から大変はがゆい思いをするから、ホント、なんとかしたいんだけどなあ。
読んだ本の感想を着実に記録できたり、他人が読んでも面白いブログ記事にできる人が、眩しい。
もう、尊敬しかないです。
で、今日のお昼に寄ったブックオフで見つけて手に取った「広島第二県女二年西組」についても、うまく言葉にする自信がない。
重い内容の本だし、すぐに読むつもりはなかったんだけど、積読山に積む前の確認としてパラパラめくったところ、そのまま引き摺り込まれ、昼ごはんを食べる事も忘れて一気読みした。
タイトルから察しがつく人も多いかも知れないが、本書は広島の原爆を扱ったルポルタージュである。
広島第二県女二年西組の生徒は、建物疎開の作業に駆り出され、爆心地から1キロの地点で被爆。
奇跡的に火傷が軽かった1名を除いて、動員された生徒はみな死亡した(生き残った1名も、三十代後半で癌に倒れている)
筆者は、たまたま前日に下痢をして休んだため、難を逃れた。
当時の動員はお国のための大事な奉仕、少々の体調不良で休めるようなものでは無い。
実際、級友たちの何人かは、体調を崩しても動員先に向かっている(そして、著者はその事を必ず書き留める)。
筆者が休んだのは母親から休むよう強く言われたからなのだが、その母親は戦況逼迫のおり「ピンクのワンピース」で学校に来てしまうような人で、軍国主義に染まりきっていなかったが故に、娘を休ませる決断を下せたのだろう。
そして、そうやって助かったという事実が、筆者にとっての「負い目」になっているのだ。
文章の端々から、筆者の負い目が、「すまない」という気持ちがひしひしと伝わってくる。
本当に憎むべきは、原爆を落とした国家であり、そこまで国民を追い込んだ国家であると言うのに、筆者自身もその事は承知していると言うのに、先にたつのは「すまない」と言う感情なのだ。
原爆は、犠牲者から個性を剥ぎ取った。
顔中焼けたただれた被爆者の顔は肉親にすら判別できず、死ねば一度に積み上げて焼かれたから(遺体を焼く燃料も、棺も無かった)遺骨すら本人の物とわからない。
そのままではいけない、一人一人が違った人間で、13年から15年の歳月を必死に生きて、家族や友人にとってかけがえのない存在だったのだ。
筆者の執念は、彼女たちの顔を取り戻す事に向けられていたように思う。
本書が刊行されたのは、原爆投下から40年後だが、それからさらに30年がたった。
いまはなおさら、被爆者の一人一人を個別の人間として捉えるのは難しいだろう。
ともすれば反戦を唱えることすら、「大局をみて」「冷静な視点から」と求められるご時世である。
確かに、体験だけに依拠した反戦思想には、危うさもある。
だけど、大局だけを見て、地べたで虐殺された一人一人の顔に思いを寄せない事は、もっと危うい。
自分自身と失われた生命が同じ重さを持つ生命だと言う事、戦争で失われるものがいかに大きいのか、
そういった部分にフォーカスあて、自分ごととして引き受ける力を弱めてしまうから。
声をあげることも叶わず、多くは戦争に負ける事も知らず逝った級友たち。
名も無き被爆者の群に埋もれかけていた彼女たちの顔を取り戻すこと。
その執念が、今も読み継がれる本書に結実している。
【本日の5冊】
風邪をひいているのです
日曜日からずっと風邪ひきです。
最初は喉の痛みと37℃弱の熱が続いて、そのあとはしつこい咳と鼻水。
やっと鼻水が収まりかけたら、今度は悪寒が走る。
しかし、仕事がなかなか忙しかったのと、数週間前に鬱に陥って休んでしまったこともあり、
熱でふらふらしながらも出勤して、無理矢理仕事に励んでました。
懸念だった仕事を片付け、なんとか会社に迷惑をかけずに済んだと安堵していた矢先、
社長とエースデザイナーが、しきりと喉の痛みをうったえはじめました。
さらに、鼻をすすり出す2人……
そう、よりにもよって会社の中核を担う2人に、風邪をうつしてしまったのです。
いや、職場には80歳の同僚もいて、この方にだけはうつすまいとそれなりに注意してたんですが、
壮年2人に関しては完全にノーマークでした。
ともあれ、会社にはかえって迷惑をかけてしまったみたい。
勤勉すぎるのも考えものですね。
【本日の5冊】
かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
- 作者: ジェニファー・アッカーマン,鍛原多惠子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2014/12/19
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文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
- 作者: ジャレド・ダイアモンド,倉骨彰
- 出版社/メーカー: 草思社
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ハーモニー 温又柔「台湾生まれ日本語育ち」
温又柔さん。
表紙にあるアルファベット表記は「Wen Yuju」、文中に出てくる中国語読みは「ウェンヨウロウ」、彼女自身の自己紹介と先日拝聴したトークセッションで(日本語ネイティブから)呼ばれていた読みは「おんゆうじゅう」。
作中、中国語ネイティブの人が彼女の名前を、「やさしそうな名前」と評する場面があるけれど、日本語ネイティブの私から見ても、「温又柔」という文字列、「おんゆうじゅう」という響きは、とても暖かく柔らかく感じる。
私よりひとつ年下の彼女は、台湾に生まれ、3年足らずで日本に引っ越し、その後は日本社会で成長した。
一番得意な言語は日本語、文章も日本語で綴る。
しかし、発話が早かった彼女が最初に話したのは、台湾で一般的な中国語(と、少々の台湾語)だし、父母の話す言葉は中国語台湾語日本語の混交した「ママ語」、さらにさらに日本統治時代に教育を受けた祖父母とは(少し古風な)日本語で話す。
高校大学では彼女自身の選択で中国語を学び、韓国語も勉強中とある。
さっき私は、極めて雑に日本語ネイティブという言葉を使ったけど、彼女がどの言語の「ネイティブ」なのか?彼女にとって「母語」はどの言語なのか?考えようとしても、考えつかない。
さらに、彼女が置かれた言語環境のバックボーンを思うと、私はもっとくらくらしてしまう。
彼女の父母の代は、国民党政府により台湾語を抑圧され中国語を身につけた世代だし、彼女の祖父母が「古風な」日本語を話すのは日本がかつて台湾を侵略していたからなのだ。
温又柔という個人の言語環境に、これだけ複雑な背景がある、東アジアの歴史が流れていると思うと、圧倒される。
と、同時に何の疑いもなく「日本語ネイティブ」と名乗れてしまう、日本生まれで日本語話者の両親の下に育ち、教育も日本語で受けて、日本社会から一歩も出ることなく生きてこれた自分にとっての、「日本語」って何だろうか?と、考えさせられた。
例えば、コンビニエンスストアで、外国の名前が記された名札の店員さんが、たどたどしい「日本語」を話す時、その「日本語」に苛立ちを覚えて「「日本語」を話せる店員はいないのか」と舌打ちする時、私たちは当たり前の様に、「自分たちの日本語」こそが正しい日本語だと信じ、目の前の店員さんにその日本語を押し付けようとするけど、本当に「私たちの日本語」だけが日本語なんだろうか?
少なくとも私は、日本語を「日本人」なんて狭い括りに入る人間だけで、独占したくない。
日本語ネイティブ様が制定する「正しい日本語」なんて、はっきり言って下らない拘りだ。
多少発音がぎこち無くても、文法が独特でも、その人、その人の数だけ「日本語」があり、「ことば」がある。
それって、本当に風通しが良いし、心地よいじゃないですか。
様々な逡巡を経て、自分は「日本語に住んでいる」と思うに至った温又柔さん。
同じ日本語の軒下を借りている1人として、彼女の「日本語、ニホンゴ」にもっと耳を傾けていたいと思う。
【本日の5冊】
しみじみ旨い文章のご馳走 池内紀「あだ名の人生」
このところ読書スランプで、あまり本を読めていなかったのは、以前のエントリーで書いた通り。
オマケにとある故人のゴシップを掘ることにはまってしまい、我ながら悪趣味だと思いながらも2ちゃんねる(いまは、5ちゃんねるなんでしたっけ?)だの、週刊文春のWeb版だのを回遊してました。
楽しいんだけど、確実に人間としての格を落とす行為です……でも、止められない私は、所詮2ちゃんねる世代……
そんななか、電車の中でだけちびちび読んでいたのが、ドイツ文学者池内紀さんの「あだ名の人生」という伝記集。
池内さんの伝記ものは、簡潔な中に対象に対する思いやりが感じられて、読んでいて心地よい。
また、言葉を尽くし過ぎないが故の、余韻というか滋味があって、じんわりとしみてきます。
東郷青児に関する章など、ゴシップ的な興味も満たしてくれる文章でありながら、読後感は静か。
私もこういう文章をかける人間になりたいものですが、たぶんそれには相応の蓄積と人生経験が必要。
青年から老年にメタモルフォーゼできる人間など存在せず、枯淡の境地とか、可愛いおばあちゃんという地点に到達するには、中年という長い坂をダラダラ登りきる必要があるのです。
私など中年坂の入り口で躊躇ってる段階なので、2ちゃんねるはそこそこにして、もう少し研鑽を積まねばなりませんね。
【本日の5冊】
- 作者: ジョンクラカワー,Jon Krakauer,海津正彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1997/10
- メディア: 単行本
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モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)
- 作者: 池内紀
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2008/02/07
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