「広島第二県女二年西組」

    読書スランプから脱出できたと思ったら、猛烈な読書欲に駆られて本ばかり読んでいる。

と言っても知れた量ではあるんだけど、先週の1週間で10冊と言うのは、私にしては多い。

 

    最も、勢いに任せて読んだ本を自分の血肉にしていくのは難しくて、内容を忘れてしまう事もある。

大学を卒業した時に、「読書は私にとって娯楽なんだ」「楽しめれば血肉になんてならなくていい」と割り切ったつもりでいるのだが、根が真面目なので読んだ本の内容を忘れてしまうと、ものすごく後悔してしまうのだ。

 

    忘れないためには記録すれば良いのだろうし、このブログをそのために使う手もある。でも私、感銘を受ければ受けるほどそれを言葉にするのに難儀する体質なんでね。

面白かった、感動した、まるって感じで、言葉を呑み込んでしまったり、ぐちぐちと考えを巡らせ同居人氏相手に言葉を吐き出した挙句に、収集がつかなくなって纏めるのを断念したり。

だから、自分にとって大切な本ほど、その本を読んだ時の自分がどう感じたか、おぼろげでつかみとれない。

後から大変はがゆい思いをするから、ホント、なんとかしたいんだけどなあ。

読んだ本の感想を着実に記録できたり、他人が読んでも面白いブログ記事にできる人が、眩しい。

もう、尊敬しかないです。

 

 

    で、今日のお昼に寄ったブックオフで見つけて手に取った「広島第二県女二年西組」についても、うまく言葉にする自信がない。

重い内容の本だし、すぐに読むつもりはなかったんだけど、積読山に積む前の確認としてパラパラめくったところ、そのまま引き摺り込まれ、昼ごはんを食べる事も忘れて一気読みした。

 

    タイトルから察しがつく人も多いかも知れないが、本書は広島の原爆を扱ったルポルタージュである。

広島第二県女二年西組の生徒は、建物疎開の作業に駆り出され、爆心地から1キロの地点で被爆

奇跡的に火傷が軽かった1名を除いて、動員された生徒はみな死亡した(生き残った1名も、三十代後半で癌に倒れている)

 

    筆者は、たまたま前日に下痢をして休んだため、難を逃れた。

    当時の動員はお国のための大事な奉仕、少々の体調不良で休めるようなものでは無い。

実際、級友たちの何人かは、体調を崩しても動員先に向かっている(そして、著者はその事を必ず書き留める)。

    筆者が休んだのは母親から休むよう強く言われたからなのだが、その母親は戦況逼迫のおり「ピンクのワンピース」で学校に来てしまうような人で、軍国主義に染まりきっていなかったが故に、娘を休ませる決断を下せたのだろう。

    そして、そうやって助かったという事実が、筆者にとっての「負い目」になっているのだ。

文章の端々から、筆者の負い目が、「すまない」という気持ちがひしひしと伝わってくる。

本当に憎むべきは、原爆を落とした国家であり、そこまで国民を追い込んだ国家であると言うのに、筆者自身もその事は承知していると言うのに、先にたつのは「すまない」と言う感情なのだ。

 

    原爆は、犠牲者から個性を剥ぎ取った。

顔中焼けたただれた被爆者の顔は肉親にすら判別できず、死ねば一度に積み上げて焼かれたから(遺体を焼く燃料も、棺も無かった)遺骨すら本人の物とわからない。

そのままではいけない、一人一人が違った人間で、13年から15年の歳月を必死に生きて、家族や友人にとってかけがえのない存在だったのだ。

筆者の執念は、彼女たちの顔を取り戻す事に向けられていたように思う。

 

    本書が刊行されたのは、原爆投下から40年後だが、それからさらに30年がたった。

いまはなおさら、被爆者の一人一人を個別の人間として捉えるのは難しいだろう。

ともすれば反戦を唱えることすら、「大局をみて」「冷静な視点から」と求められるご時世である。

    確かに、体験だけに依拠した反戦思想には、危うさもある。

だけど、大局だけを見て、地べたで虐殺された一人一人の顔に思いを寄せない事は、もっと危うい。

自分自身と失われた生命が同じ重さを持つ生命だと言う事、戦争で失われるものがいかに大きいのか、

そういった部分にフォーカスあて、自分ごととして引き受ける力を弱めてしまうから。

 

    声をあげることも叶わず、多くは戦争に負ける事も知らず逝った級友たち。

名も無き被爆者の群に埋もれかけていた彼女たちの顔を取り戻すこと。

その執念が、今も読み継がれる本書に結実している。

 

【本日の5冊】

 

広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち (ちくま文庫)

広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち (ちくま文庫)

 

 

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

 

 

原爆体験と戦後日本――記憶の形成と継承

原爆体験と戦後日本――記憶の形成と継承

 

 

 

複数の「ヒロシマ」―記憶の戦後史とメディアの力学

複数の「ヒロシマ」―記憶の戦後史とメディアの力学

 

 

 

戦後史とジェンダー

戦後史とジェンダー

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

   

 

    

 

 

 

風邪をひいているのです

    日曜日からずっと風邪ひきです。

最初は喉の痛みと37℃弱の熱が続いて、そのあとはしつこい咳と鼻水。

やっと鼻水が収まりかけたら、今度は悪寒が走る。

 

   しかし、仕事がなかなか忙しかったのと、数週間前に鬱に陥って休んでしまったこともあり、

熱でふらふらしながらも出勤して、無理矢理仕事に励んでました。

懸念だった仕事を片付け、なんとか会社に迷惑をかけずに済んだと安堵していた矢先、

社長とエースデザイナーが、しきりと喉の痛みをうったえはじめました。

さらに、鼻をすすり出す2人……

 

    そう、よりにもよって会社の中核を担う2人に、風邪をうつしてしまったのです。

 

    いや、職場には80歳の同僚もいて、この方にだけはうつすまいとそれなりに注意してたんですが、

壮年2人に関しては完全にノーマークでした。

 

    ともあれ、会社にはかえって迷惑をかけてしまったみたい。

勤勉すぎるのも考えものですね。

 

【本日の5冊】

 

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

かぜの科学:もっとも身近な病の生態 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

 

風邪の効用 (ちくま文庫)

風邪の効用 (ちくま文庫)

 

 

 

ワクチンは怖くない (光文社新書)

ワクチンは怖くない (光文社新書)

 

 

 

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
 

 

 

もやしもんと感染症屋の気になる菌辞典

もやしもんと感染症屋の気になる菌辞典

 

 

 

 

 

ハーモニー 温又柔「台湾生まれ日本語育ち」

    温又柔さん。

表紙にあるアルファベット表記は「Wen Yuju」、文中に出てくる中国語読みは「ウェンヨウロウ」、彼女自身の自己紹介と先日拝聴したトークセッションで(日本語ネイティブから)呼ばれていた読みは「おんゆうじゅう」。

作中、中国語ネイティブの人が彼女の名前を、「やさしそうな名前」と評する場面があるけれど、日本語ネイティブの私から見ても、「温又柔」という文字列、「おんゆうじゅう」という響きは、とても暖かく柔らかく感じる。

 

    私よりひとつ年下の彼女は、台湾に生まれ、3年足らずで日本に引っ越し、その後は日本社会で成長した。

一番得意な言語は日本語、文章も日本語で綴る。

   しかし、発話が早かった彼女が最初に話したのは、台湾で一般的な中国語(と、少々の台湾語)だし、父母の話す言葉は中国語台湾語日本語の混交した「ママ語」、さらにさらに日本統治時代に教育を受けた祖父母とは(少し古風な)日本語で話す。

    高校大学では彼女自身の選択で中国語を学び、韓国語も勉強中とある。

 

    さっき私は、極めて雑に日本語ネイティブという言葉を使ったけど、彼女がどの言語の「ネイティブ」なのか?彼女にとって「母語」はどの言語なのか?考えようとしても、考えつかない。

 

    さらに、彼女が置かれた言語環境のバックボーンを思うと、私はもっとくらくらしてしまう。

    彼女の父母の代は、国民党政府により台湾語を抑圧され中国語を身につけた世代だし、彼女の祖父母が「古風な」日本語を話すのは日本がかつて台湾を侵略していたからなのだ。

    温又柔という個人の言語環境に、これだけ複雑な背景がある、東アジアの歴史が流れていると思うと、圧倒される。

 

    と、同時に何の疑いもなく「日本語ネイティブ」と名乗れてしまう、日本生まれで日本語話者の両親の下に育ち、教育も日本語で受けて、日本社会から一歩も出ることなく生きてこれた自分にとっての、「日本語」って何だろうか?と、考えさせられた。

 

    例えば、コンビニエンスストアで、外国の名前が記された名札の店員さんが、たどたどしい「日本語」を話す時、その「日本語」に苛立ちを覚えて「「日本語」を話せる店員はいないのか」と舌打ちする時、私たちは当たり前の様に、「自分たちの日本語」こそが正しい日本語だと信じ、目の前の店員さんにその日本語を押し付けようとするけど、本当に「私たちの日本語」だけが日本語なんだろうか?

    

    少なくとも私は、日本語を「日本人」なんて狭い括りに入る人間だけで、独占したくない。

    日本語ネイティブ様が制定する「正しい日本語」なんて、はっきり言って下らない拘りだ。

    多少発音がぎこち無くても、文法が独特でも、その人、その人の数だけ「日本語」があり、「ことば」がある。

   それって、本当に風通しが良いし、心地よいじゃないですか。

 

 

    様々な逡巡を経て、自分は「日本語に住んでいる」と思うに至った温又柔さん。

    同じ日本語の軒下を借りている1人として、彼女の「日本語、ニホンゴ」にもっと耳を傾けていたいと思う。

 

【本日の5冊】

 

台湾生まれ 日本語育ち

台湾生まれ 日本語育ち

 

 

 

日本語ぽこりぽこり

日本語ぽこりぽこり

 

 

 

日本語の外へ (角川文庫)

日本語の外へ (角川文庫)

 

 

 

アメリカは食べる。――アメリカ食文化の謎をめぐる旅

アメリカは食べる。――アメリカ食文化の謎をめぐる旅

 

 

 

呂赫若研究―1943年までの分析を中心として

呂赫若研究―1943年までの分析を中心として

 

 

しみじみ旨い文章のご馳走 池内紀「あだ名の人生」

    このところ読書スランプで、あまり本を読めていなかったのは、以前のエントリーで書いた通り。

   オマケにとある故人のゴシップを掘ることにはまってしまい、我ながら悪趣味だと思いながらも2ちゃんねる(いまは、5ちゃんねるなんでしたっけ?)だの、週刊文春のWeb版だのを回遊してました。

    楽しいんだけど、確実に人間としての格を落とす行為です……でも、止められない私は、所詮2ちゃんねる世代……

 

    そんななか、電車の中でだけちびちび読んでいたのが、ドイツ文学者池内紀さんの「あだ名の人生」という伝記集。

    池内さんの伝記ものは、簡潔な中に対象に対する思いやりが感じられて、読んでいて心地よい。

    また、言葉を尽くし過ぎないが故の、余韻というか滋味があって、じんわりとしみてきます。

    東郷青児に関する章など、ゴシップ的な興味も満たしてくれる文章でありながら、読後感は静か。

 

    私もこういう文章をかける人間になりたいものですが、たぶんそれには相応の蓄積と人生経験が必要。

    青年から老年にメタモルフォーゼできる人間など存在せず、枯淡の境地とか、可愛いおばあちゃんという地点に到達するには、中年という長い坂をダラダラ登りきる必要があるのです。

     私など中年坂の入り口で躊躇ってる段階なので、2ちゃんねるはそこそこにして、もう少し研鑽を積まねばなりませんね。

 

【本日の5冊】

 

 

空へ―エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか

空へ―エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか

 

 

ドキュメント 単独行遭難 (ヤマケイ文庫)

ドキュメント 単独行遭難 (ヤマケイ文庫)

 

 

 

 

あだ名の人生

あだ名の人生

 

 

 

モーツァルトの息子   史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)

モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)

 

 

 

おじさん・おばさん論

おじさん・おばさん論

 

 

 

 

    

   

貧困は必ずしも善人の顔はしていない 是枝裕和と成瀬巳喜男

   ひとり暮らしでカツカツの生活をしていた頃、深夜に再放送されているドキュメンタリー番組を観て、とてつもなくやりきれない気持ちになった。

    「しかし…」というそのドキュメンタリーを私は後半しか観ていないので、詳しい経緯はわからないが、水商売の世界で生きてきた女性が病を得て生活保護を受給しようとするが、水際作戦にあって辞退を強いられ、追い詰められた末に焼身自殺をえらぶ。

    私がそのドキュメンタリーを観た時期は、まだ日本に貧困は「ない」と言い切れる人間が多数派な時期で、貧困なのも職にありつけないのも、「自己責任」という風潮。でも、画面の中の女性が歩んだ人生は、明らかに「自己責任」では片付けられないものだった。

    人は、こんなにも簡単に貧困に陥るのか、国家はこんなにも簡単に貧者を切り捨てるのか……やりきれない気持ちを、なかなか言語化できず、深夜の六畳一間で悶絶したのを覚えている。

 

    なぜ、そのドキュメンタリーが再放送されていたかと言うと、後に劇映画に転じた監督、是枝裕和の作品が、カンヌ国際映画祭で高評価を受け、主演の少年が男優賞を受賞したから。

    すごいのは、「しかし…」が撮られたのが、バブルまっただ中の1991年だってこと。日本中が浮かれていたであろう時代に、見えなくされていた貧困を抉り出す是枝は、ものすごい眼力の持ち主だと思う。

 

   そんな、是枝裕和万引き家族」という映画が、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得!したのに、「日本の恥を世界に晒すのか!」「万引きという犯罪を犯す貧者など、描くべきじゃない」と、一部で非難轟々だとか。

   そうか、その「一部」の人にとって、貧困てのは、未だに見えなくするべき日本の恥なのか……と思うと、ため息しか出ない。

    万引きは確かに軽視すべきではない犯罪だけど、高齢や障碍を負った受刑者の大半が窃盗(恐らくかなりの割合万引き)で服役している事から分かる通り、社会の貧困をダイレクトに映し出す犯罪でもある。

    貧困だからって、みんなが犯罪に走るわけではないというのは事実だけど、社会から切り捨てられ、見えなくされた状態で、一定数犯罪に走る人間が出てきたとしても、果たして本人の心がけだけの問題と言えるのかどうか?

 

    貧者は必ずしも善人の顔はしていない、でも、私たちのイメージ通りの「美しい貧困」から外れた存在だからって、簡単に切り捨てて見えないふりをするのは、多少なりとも「持っている」側の人間としては、あってはならない態度なのでは無いだろうか?

 

    そんな事をぐるぐる考えながら入った名画座で、成瀬巳喜男の「はたらく一家」を観て、さすがヤルセナキオこと成瀬、むちゃくちゃ考え込んでやるせない気持ちになってしまった。

 

    まさしく、「善良な貧者」の話で、7人も子供のいる家庭の長男が、少しでもいい職につくため学業を続けたいと望むも……という物語。

    家族の内にも外にも、憎むべき悪役は一人もおらず、みな懸命に働き家族を支え、しかし、自分の人生を生きるにはあまりにも貧しい。

   戦前の映画だから仕方ないんだけど、貧困がまるで自然災害の様に描かれていて、ちょっと引っ掛かりを感じてしまう。「貧困」を描こうとすると観念的になってしまう黒澤明にくらべると、地べたの人達の実感がしみじみと活写されていて、ホント心が暖かくなるけど、心が暖まっておしまいにしちゃって良いのか、躊躇ってしまうな。

 

    そんななか、息子の将来を決める選択にもあまり関心をもたず(持てる余裕などなく)、ひたすら今日明日の米の心配をしている母親と、一家の貧困に心を痛めつつも何も出来ないインテリ男のキャラクターがリアル。

   成瀬巳喜男って、決して美しい日本だけを描いてきた人じゃないし、結構「黒い」作家だと思うんだけど、この2人の造形には黒成瀬が覗いてますな。

 

   たまたま是枝裕和について考えながら観ていたからこんな感想だけど、映画自体の魅力はこんな野暮な感想を突き抜けるものがあると思います。

    兄弟の1人が植字工(私の大先輩!)なんだけど、その仕事風景が活写されてて、歴史的にも貴重な作品だと思いました。

    その他にも、甘酒と汁古とコーヒの店とか、戦争ごっことか、母親がしてる袋貼りの内職とか、全てが愛おしい!登場人物達が喋る東京弁?もきれい(除︰チョイ役で出てくる藤田進)で、真似したくなります。

 

【本日の5冊】

 

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

 

 

 

 

 

貧困の現場から社会を変える (POSSE叢書)

貧困の現場から社会を変える (POSSE叢書)

 

 

 

 

話術 (新潮文庫)

話術 (新潮文庫)

 

 

 

 

成瀬巳喜男 映画の面影 (新潮選書)

成瀬巳喜男 映画の面影 (新潮選書)